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富山検定

ナグは時折 日本フットケア協会の講師としても活動しているが、先日 結城教室の生徒さんが無事に卒業された。

 

彼女は家事と看護師のお仕事を両立しつつ、介護施設でのフットケアも行っている。

 

以前から臨床でも爪切りが上手であったのだろうと、初回の講座から伺えた。

何より患者さんへの気遣いと優しさに溢れていて、それは身体の触れ方に現れていた。
とても感度が高く、しかし人を思うがあまり、自分に意識が及んでいないとすぐさま受け取れた。

 

これは彼女に限った事ではなく、殆どの方がそのように仕事や生活をされているのが常であろうと思う。

 

〈 検定のお話 〉

 

ウチの協会は最後に検定があり

それに合格しないと、認定証がもらえないシステムだ。

 

その検定は協会の師範がジャッジすることになっている。

 

師範は現在70代にて未だ現役。
協会を牽引してくださっている。

(以下、先生と記す。)

 

先生の活動は多岐に渡り
各方面からのオファーも殺到。
お忙しい日々を過ごされている。

 

そんな中、検定は必ず欠かすことなく先生が行っている。
各教室で学ばれた生徒さんが

先生の手や足を直接施術をするという形の実技試験である。

 

これはただの試験ではない。

 

私達講師の試験のようでもあり、生徒さんにはまず悟られないようにと平静を装っているが、内心は毎回ヒヤヒヤしている。

 

それもそのはず

技術を忠実に伝えたかどうか

私たちがチェックされているのも同じだからである。

 

それともうひとつ。

 

技術を伝える役目が私達講師であるならば
先生はその技術を基に

その人の最適な身体の使い方や

それに伴った技術指導へと導く。

 

その指導はとにかく的確で

人それぞれ違う身体を

その人本来の姿へと

変えてくれるような力を持つ

他に類を見ない指導法である。

 

先生がおっしゃることはとても基本的。

シンプルだ。

 

そしてそれが体現されると

とにかく美しい形となる。

 

実に不思議だ。

 

茶道や華道の身のこなしが美しい所以は

無駄のない且つ合理的な身体の動かし方にあると思うが

その「道」と通ずるものであると私自身捉えている。

 

そしてその方法論は

意識や思想にまで影響があり

それに気づいた生徒さんは

途中で涙する事がよくある。

 

それは色んな事に気づいてしまうから。

 

先生からの指導の言葉の奥には

色んな意味を含んでいて

 

自分をいかに大事にしていないか

周囲のことばかり気にして自分を後ろに追いやっているか

謙虚のように振る舞っていた自分がいかに高慢であったか

自分を見ずに相手ばかりを見て、憶測の世界観で如何に生きているか、などと

これまでの過ごし方が浮かび上がり、自分と対面させられる瞬間が何度もある。

 

〈 環流の大切さ 〉

 

ありのまま。
そのまま。

 

先生はよく指導や普段の話の中で何度も伝えてくれる。

 

しかしそのありのままがわからない私達。

 

ありのままの自分でいいという安堵と共に
それがわからない自分であるという不安が一気に押し寄せてくる。

 

おそらくだが
本来の自分でいる事がズレて生活しているからこそ、本当の自分が見えなくなっていて、自分が信じられないでいるのかと思う。

 

身のこなし方はその人の在り方の証明となり、つまりはその人の生き方に他ならない。

 

そして不思議と

意識を変える事

余計な事は考えない事

自分を常に見つめる事

それらが叶った時ほど

よき施術に確実につながっていく。

 

その人の癖はその人自身の思考の癖だったりする。

 

無駄で効率が悪い動きは、更にロスを生み、下手すると間違った方向に進みがちだ。


自分がいいと思っている行動は実は相手には余計な圧を与え

それはこちらの負担となり必ず戻ってくる。

 

循環である。

 

循環といえば、血液は常に巡っているからこそ効果がある。

身体が熱い時は巡ってない証拠。
その場合は循環や放熱が必要。

 

あたたかい と あつい は別物だ。

 

温めればいいってものではなく、流れているからこそ温かいということ。

 

実は生きている上で大事なことは隅々の血液をいかにして心臓に戻してあげるかだ。と先生は言う。

 

それが負担をかけずに心臓の動きを助ける事に繋がるのだ。

 

環流が心臓を促し助ける。

 

先生の家系では脈々とその知恵が受け継がれてきた。

 

真理とはこういうことかと

これを知った当時の私は思ったものだ。

人生の価値観が一転するほどの衝撃であった。

 

動脈ではなく、静脈から。

大きな流れでなく、毛細血管という小さな血管から。

小さな川を繋いでいって、大河に流れ込む事を助けるようなケアがあったなんて。

 

全てが真逆の発想だった。

 

ある福祉短期大学では血の道療法が必須科目として、カリキュラムに取り入れられているらしい。

 

医療や福祉の現場ですぐにでも取り入れられる療法を、授業として受けられるなんて羨ましい限り。
将来は受け取った術(すべ)を

現場で生かしてくれる事を願う。

 

〈しなやかに、らしくあれ 〉

 

1日の検定の中で私もたくさんの気づきがあり、この機会を作ってくれた生徒さんには感謝しかない。

 

「ここに導いてくれてありがとうございました。」と言ってくださったが

これはこちらこそであり

私も同じようにたくさんの方々から

様々な形で同じようにしていただいた事を、ただただ返しているだけであって

まさしく循環している血の道の世界そのものだ。

 

その人本来の姿へ

そしてありのままの自分へ

 

未だ見失いそうになることもあるが
少しずつ近づいてきている事を確認できた富山検定でもあり

何か分岐点になるような予感がしている。

 

帰り際に先生に全身ケアをしていただいた。

身体中の捻れが真っ直ぐに伸びるようで、一気に血流がまわり、それでいて穏やかである。

 

ナグの語源の「凪」のような状態を身体中で感じる。

 

身体が元に戻ると、頭も冴え渡るような感覚へ導かれる。

直感が働きやすく、自由に動けるようになり、心も身体も軽く、呼吸が深くなる。

 

そして心から思うこと。

自分の感度を上げ続けたい。

 

しなやかに、らしくあれ。

 

やはりその言葉に尽きる。